ひさしぶりに散策。
三田から田町方面へとむかうつもりが、電車の中吊り広告が目にはいり入谷へむかってしまった。
入谷は地下鉄日比谷線で上野駅の次の駅になり、すれちがうのがやっとの狭い階段をあがったところが入谷交差点でした。
交差点から道路を封鎖して数百メートルの間、道の両側は露天でいっぱいです。
今年は50数店の朝顔売りのお店がひしめいて、通りの向かいは食べ物屋さんの屋台がたちならんでいました。
粋なおにいさん、姐御さん、初夏の風情です。
朝顔も西洋あさがお、ききょう、ゆうがお、団十郎、琉球などこんなに種類があるとはしりませんでした、値段も千円から3千円ぐらいです。
荷物になるので見物だけでしたが、右は「恐れ入谷の鬼子母神」で有名な真源寺、せまい境内でお参りを待つ長蛇の列にあっとうされ
入るにはいれず、また次回という事で....再度、日比谷線にのり上野へ向かい山手線でJR田町で下車。
田町駅を下車し慶応大学方面へと足を進めるが、途中たちよったのが、西郷隆盛と勝海舟会見の地。
江戸総攻撃を指揮した官軍の参謀西郷隆盛と江戸幕府陸軍総裁勝海舟が1868年にこの地で会見し、江戸城を無血開城し、
江戸を戦火から救いましたが、今はここは三菱自動車本社、以前は薩摩藩上屋敷だそうです。
右は、交通量激しい第一京浜からはいった慶応通り、裏道は狭く飲食店が並んでいます、この辺は三河岡崎藩水野監物の中屋敷
だそうで、通りの入り口に碑があります、この屋敷に、赤穂浪士の神埼与五郎ら9人があずけられ、この屋敷内で切腹したそうです。
裏通りを抜け、桜田通りへ入ると程なく慶応大学があります、そこへいった理由はたいした事ではないのですが、
前回は早稲田大学を訪れたので、一応ペアという事で。
慶応大学は、早稲田大学のごちゃごちゃした雰囲気とはちがって上品(?)な感じでした。
左の写真は明治45年に創立50年を記念して建てられた英国風ゴシック建築の図書館、外国人の手をかりずに
建設された重要文化財だそうです、威厳がありました。右は創始者福沢諭吉が私財を投じて建設した三田演説館、
外観は海鼠壁ですが中はアメリカの公会堂風だそうで、和洋折衷のはしりでしょうか。
大学を抜け狭い坂を昇る、この坂は綱坂という名前です、平安時代中期の渡辺綱の出生地だとか、思いだしましたが
大江山の酒呑童子退治や、京都一条戻り橋の鬼婆退治の人でしたが....
坂の途中にある、イタリア大使館、ここは以前は伊予松前藩松平隠岐守の中屋敷跡だそうで、赤穂浪士の大石主税
以下10名はここで切腹したそうです、この辺は泉岳寺にも近く縁が深いという事でしょうか。
その先、左手にあったのが三井倶楽部の建物、旧財閥の三井家が大正2年三井家の迎賓館として建てたそうです。
右の写真はその敷地にある阿波徳島藩中屋敷内にあった長屋です、江戸と大正が隣り合わせでなかなかいい感じでした。
ここは善福寺、黒船で有名なハリスが初代の駐日公使としてつかった公使館との事、右の碑はその記念碑です。
ハリスはその前年54才の時、アメリカ総領事で赴任した下田で病気となり、看護婦名義の女性として奉公した唐人
お吉との話しは聞いた事があります。
お吉はその後酒乱となり、たびたびハリスを訪ねたという、お吉17歳でした。お吉の墓は伊豆急下田駅から数分
のところにあります。
この銀杏は樹齢800年を超える国天然記念物の大いちょう、1863年攘夷派の志士達に公使館を襲撃され、庫裏などをやかれたが、
類焼をまぬがれ、昭和20年の東京大空襲で本堂が全焼した際も被害があったそうですが、生きのびています。
右は福沢諭吉夫妻のお墓です、字がよくみえなくてすみません。
善福寺をでて左の警戒厳重な韓国大使館をすぎ、坂を昇りつめると、仙台坂の標識があります
、このへんは江戸時代、仙台伊達藩下屋敷一帯だったそうです。
その交差点を右折すると、安藤記念教会があります、石つくりの建物と調和したステンドグラスが美しく輝いていました。
建設した、安藤太郎は函館戦争で榎本武揚とともに官軍としてたかかい、その後晩年、キリスト教徒となり
大正6年に私財を投じて建築したそうです、いい建物でしたね。
その先、大使館が並ぶ暗闇坂を抜けると、麻布十番商店街となります。大都会の下町、そんな町でしょうか。
新旧のいりまじった商店街で、デートする人々や、家族連れも、散歩する人、さまざまな人であふれていました。
明治23年創業の紀文堂、右は創業200年の更科堀井総本家です。
ここも創業200年の永坂更科、右は創業140年あまりの豆源本店です豆は普通、おかきのほうがおいしかったです。
お肌つるつるになるという麻布十番温泉。右は赤い靴の女の子のきみちゃんの像です。
女の子は、3歳でひきとられた宣教師夫妻と一緒にアメリカへ渡るはずでしたが、結核になっていました、
渡航ができないまま6歳で麻布永坂の孤児院にひきとられ、三年後の9歳になったとき他界しました、明治45年9月15日。
岩崎きみちゃん、赤い靴をはいてた女の子でした。
麻布十番から5分も歩くと六本木です、都会の中の下町が残る商店街でした。