2月の最初の日曜日、穏やかそうな日だったので、今年最初の散策へと出かけることにした。
以前から竹久夢二のお墓にまだいっていないことが気がかり(?)だったので雑司ヶ谷霊園に行くことにした。
ついでにその周辺もということでまず行ったことがあった護国寺から歩きはじめた。
護国寺は徳川五代将軍綱吉の時代、彼の生母桂昌院が発願してできた寺で、江戸時代の建築物として
山門、仁王門、本堂、大師堂、薬師堂、多宝塔など多く存在し見ごたえがあり、古い建物からは何かを感じさせます。

左は山門、右は多宝塔の庇です。
境内からはいってすぐ、鐘楼までの昇り降りの間、ずっとあとをついてきたものずきな猫です、ここは猫が多い。
右の猫は大師堂の賽銭箱の上で昼寝中。

この寺は、一説には綱吉が子にめぐまれず、そのため、住職の亮賢が「子にめぐまれないのは前世の殺生の報い」と説いたため
綱吉は「生類憐みの令」を発布したという話がありますが、どっちにしても迷惑したのは庶民でした。
ここから首都高速5号線沿いに歩き雑司ヶ谷霊園へとむかいます。
途中、霊園の手前に雑司ヶ谷旧宣教師館があります。

明治40年にアメリカ人の宣教師マッケーレブが自宅のためにたてた2階建ての建物で、19世紀のアメリカの住宅
がこんな感じだったということがわかります。
住宅街の真ん中に洋館があるのにはびっくりですが、あまり違和感を感じさせません。

入口にあった少女像と庭園の鮮やかな色の植物。
そこからはほどなく、雑司ヶ谷霊園です、霊園前の花屋さんの建物も昔のレトロな建物です。

雑司ヶ谷霊園は面積115,000平方メートルほどの都立霊園です。
有名人のお墓も多くありました、最近は霊園ツアーがブームとかで人手を予想していたのですが、散歩の人と、
わずかな墓参りの人だけでした。
夢二の墓は霊園の真ん中あたりにありました。
訪れたファンでしょうか、献花に囲まれていました、あの世では愛した恋人達に囲まれていることでしょうか...
そんな事を考えてしまいました。

左のお墓は夏目漱石、死の直前は胃潰瘍が悪化しほとんど食べ物をうけつけなかったそうで、
最後に一匙のワインを飲み「うまい」が最後の言葉だったそうです。
右は永井荷風の墓、彼も胃潰瘍で病死とかで、遺産は数億円と言われたそうですが、誰がひきついだの
でしょうか...

小泉八雲の墓です、彼の「耳なし芳一」をよんだ記憶はまだのこっています、怖かった!
右は、徳川埋蔵金伝説で有名になった小栗上野介のお墓です、埋蔵金はどうなったのでしょうか。

左は金田一京助、右は泉鏡花のお墓です。

左はジョン萬次朗のお墓、土佐の漁師だった彼は14歳で出漁して難破し、半年余りのあいだ無人島で暮らし、アメリカ船
に救助されて、アメリカで学校へ通い語学を身に付け、その後日本へ帰国して徳川幕府の通訳や軍艦の操練をしたという奇遇な人生を
生きた人でした。
右は、島村抱月の墓にあった墓碑、碑文は「在るがまゝの現実に即して全的存在の意義を髣髴す観照の世界也」難しくて理解不能でした。
彼は東京専門学校(後の早稲田大学)で坪内逍遥に師事し、才能を認められ、イギリス、ドイツと留学してのち、大隈重信をたより、
逍遥を会長にして「文芸協会」を設立した。
この劇団は「ハムレット」「人形の家」など多くの演劇活動を行ったそうですが、劇団女優の松井須磨子と妻のある抱月との結ばれぬ恋に陥いり、
やがて人にしれる事となり二人は退団させられてしまいました。
二人は「芸術座」を立ち上げ大正2年に旗揚げ公演を行いましたが、それもわずか6年後に彼はスペイン風邪にとりつかれ47歳の生涯
を終えたが、愛人の松井須磨子は、2ヶ月後に芸術座の大道具置き場で首をつりあとをおいました、33歳だったそうです。
彼女は芸術座の公演の作品「復活」でカチューシャの唄をうたいその歌詞とメロディーはどこか記憶があります。
この墓碑の碑文は「ふたりでみるとすべてのものは美しくみえる サトーハチロー」とあります。
この霊園には他には画家の東郷青児の墓もありますが、夢二が生涯の愛人彦野としりあってからの後の事、東郷青児と
夢二の妻だった「たまき」と青児の仲を疑い富山の海岸で彼女の腕を刺し別れの原因となりましたが、「たまき」は生涯夢二を愛したといいます。
1934年に夢二が信州富士見高原療養所で51歳で亡くなったあと、たまきは、この療養所を訪ね、「夢二がお世話になりました」といい、
3ヶ月間にわたり無償で奉公したそうでどんな気持ちだったのでしょうか....
男女の気持ちは難しく、よく理解ができませんが....
やはり、夢二は幸せな人だったのでしょうね。
霊園のあと、大鳥神社、鬼子母神とめぐりますがまた後日にでも。