先日、有楽町でひさしぶりで友人と再会したが、会う前に少し時間があり付近

を散歩、小雨混じりなのであまり行きつけないガード下を歩いてみました。

ガード下は有楽町のちょうど晴海通りの交差点あたりから新橋までの間の

JR高架下が飲食店街となっています。

飲食店が途切れるあたりまではこんな感じの昭和の雰囲気が漂っていました。

飲食店が途切れてしまうと、こんな殺風景な雑然とした通路になってしまいます。

勤め帰りの人があるくだけの、とても有楽町とは思えません、一歩、表通り

へ出て、外堀通りを超えると、あの華やかな高級クラブが立ち並ぶ通りとは

雲泥の差があります。

ガード下とビルとの間の道路も狭く、車が1台やっと通れる位の幅です、

人通りも少なく、とても繁華街とは想像もつきません。

この先は行っても何もなさそうなので、泰明小学校まで道を戻りました。

泰明小学校は「みゆき通り」に面した小学校で、1878年創立当時は木造の

校舎で、関東大震災で焼け落ち、その後、鉄筋3階建て校舎として、

1929年(昭和4年)に再建されたそうです、部厚い鉄筋のおかげで、空襲でも

焼けなかったようです.

ツタの絡まるエキゾチックな小学校です、この立派な門はフランス門と呼ばれて

いるようで、南仏の貴族から寄贈されたといわれています、門といい、校舎といい、

銀座にふさわしい、歴史的建物ですね。

みゆき通りという名前は明治天皇が、海軍大学などへ外出のさいに通った道なので、

天皇が皇居から外出する事を行幸(みゆき)といったので、「みゆき通り」と呼ばれた

ようです、そういえば「みゆき族」というのが一時期はやりましたね。

門の左手にあった銀座の柳二世の看板と、島崎藤村、北村透谷がこの小学校で

学んでいたを記した記念碑がありました。

銀座の柳は明治の初期に植樹され、その後、道路拡張、関東大震災、東京大空襲、

でだんだんと減り、最後には銀座通りの道路拡張ですべて撤去されたそうです、

その後、生き残った数本が日野市にある事がわかり、その小枝から栽培して、中央区

の何ヶ所かに植えられたそうです、幼い頃、銀座の柳が、どうこうとか、ラジオから

聞こえた記憶があります。

北村透谷の作品「厭世詩家と女性」の最初の一小節で、彼はこう書いています。

 「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり、恋愛ありて後人世あり、恋愛を抽(ぬ)き

去りたらむには人生何の色味かあらむ、〜」

四才遅れで生まれた島崎藤村ですが、一年間しか在学しなかった透谷とは、顔を

合わせることはなかったとおもいますが、彼の作品に影響をうけ、雑誌「文学界」

で行動を共にし、浪漫派詩人として活躍しました。

そろそろ、集合時間なのでこのへんで.....

そのあとの友人との、宴会まえのわずかな散策でした。

2013年10月15日記

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