10月7日の谷中
今日は、山野草の花器を求めに上野で下車。
ついでに、国立博物館の先に大名屋敷の門があるのを聞き及び、寄って見る事に。
なかなか立派な門です、ここは旧因州鳥取藩池田家の上屋敷の門だそうです、東大の赤門
より堂々としている感じでした。
買い物へ戻る予定が、ついついその先まで、あるいてしまいました。
左は寛永寺にあったお地蔵様、寛永寺は徳川家代々の将軍家の墓があります。
将軍家の墓は、芝の増上寺とここと、日光の東照宮、一人だけ最後の将軍、徳川慶喜の墓は何故か谷中の墓地だそうです。
さすがに徳川家の墓があるだけに、寺院の格式は高いそうで、建立時代の名をつけた寺でした、そういえば日本にはたしか五つぐらい
しかその時代の名をつけた寺はなかったとか、比叡山延暦寺、京都の仁和寺、鎌倉の建長寺、建仁寺だそうです。
右の写真は、寛永寺に行く途中にあった浄明院のお地蔵さん、いい顔をしていました、ここには8万4千体の地蔵が建立されているそうです。
ここまでくればもう谷中です。谷中といば谷中霊園。
霊園への道すがらは下町らしい建物が多くのこっています。
谷中霊園手前にあった多宝院、偶然中をのぞいてびっくりしました、なんと立原道造のお墓がありました。
墓碑には昭和14年3月29日とありましたので....偶然でしたが、みつけてラッキーでした。
右は霊園内の交番の軒先にあった、彼岸花、黄色は珍しいとかで写真をとっている人がいたので、つい一枚。
霊園内は人力車が案内してくれるようです、そのおかげで間違いなく行けた徳川慶喜のお墓、そばにいた人から慶喜は神道だそうで、
おかげで仏教の増上寺、寛永寺ではなく谷中霊園だそうです。井戸が気になったので、写真にいれました。
その人の説明だと、側室に生ませた10人目の子は勝海舟と養子縁組を結び、その彼のお墓は道路をはさんで真向かいにありました。
やはり、神道のお墓で丸いお墓でした、ちなみに慶喜のお墓の向いにある立派なお墓は一橋家のお墓と説明してくれました。
霊園には以前、五重塔があり、再建運動の署名集めをしていました、五重塔は幸田露伴の小説で有名だった五重塔でしたね、残念
ながら1957年心中の道ずれで焼失してしまいました。
お墓にいた猫ですが、目があってしまったのでつい...お墓におしっこをかけなきゃいいけど。
右は、上野へ帰る途中にあった、水月ホテルの横にある森歐外住居跡でした。
そうそう、忘れていた買い物は上野グリーンクラブでした。
左は2500円の花器ですが、おまけしてもらい2000円、右の青い花器は700円、花はついでに買った「ヤクシマウメバチ草」
630円でしたが、家にかえったらこんなにしおれていました、まっすぐかえればよかったかな......