台風の到来中、秋葉原から総武線にそって浅草橋駅を抜け隅田川沿いに厩橋から鳥越神社へと足をむけました。
なぜ、台風の日かって?たいした理由はないのです。三連休の最後の日、とうとうじっとしているのが
たえらえず、ついふらふらと出てしまいました。
午前中はほとんど雨はふっていなかったので足並みも順調でした。
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浅草橋は問屋街ですが休日はお休みの商店が多く閑散としています。
左手に見えるのが厩橋、江戸時代馬小屋があり馬の渡しがあったからだそうです。台風はそれたみたいですが空は
どんよりと曇っていました。
遊歩道は、昼ねの人、散歩の人、ジョギングの人がちらほらですが川の匂いは以前より増しているような感じでした。
墨田川遊歩道沿いにあった安藤広重の版画「両国橋大川ばた」のレリーフ、今よりは華やかな風情を感じます。
江戸は最盛期で約50〜60万人ときいたことがありますが当時最大の都市は北京とかロンドンとかで100万人程度?.
江戸のどこにそんな人気があったのかな....
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途中みつけた民営のユースホステル、榊神社の近所にありました、東京にもあったんですね。
中学時代ユースホステルクラブにはいっていた記憶があります。話をしたかったのですが3連休でお休みでした。
榊神社は町の合間にひっそりとたたずむ感じの神社で、由来はかなり古い神社とか。
途中みつけた、古い建物、この界隈はあまり古い建物がなくちょっとがっかりでした。
途中、案の上大雨になりましたがどうやらやっとたどりついた鳥越神社、
期待して感じではなくかなりちいさな神社でした。
江戸時代境内は20,000坪もあったそうで現在はわずか200坪、神社の由来は源義家親子の奥州征伐のおり、
大川越え(隅田川)の際白い鳥に浅瀬を教えられ以前の白鳥大明神から鳥越大明神にかわったとか。
この界隈鳥越は明治、大正、昭和初期は商店街が賑わい浅草につぐ盛り場だそうでした。
当時の商店街の名残りかな近所にレトロな「おかず横丁」がありました。
休日で、人影もまばらでした。
浅草橋へ帰る途中あった切支丹殉教者の碑
1613年小伝馬町のとらわれていた切支丹の使徒28名が付近で斬首された慰霊碑。
先日、本郷付近の散策中足をのばせなかった、切支丹屋敷をおもいだします。
徳川家康から家光までの徳川三代にわたる、痛ましい弾圧でしたね。切支丹屋敷は1646〜1792までの宗門改易が
廃止されるまで投獄と処刑をくりかえしたそうです。最大で70万人いたとされる教徒も新井白石による
と20〜30万人は殉教したとか。
切支丹屋敷ができる以前の殉教者の碑でしたが、徳川家にとっては島原の乱からずっとつずいた切支丹への
脅威がそうさせたのでしょうか....
はなやかな江戸の暗い影の部分....