田端はかっては、明治の後半から大正年間にわたって多くの文士たちが生活し田端文士村と呼ばれた
時期がありました。
芥川龍之介、菊池寛、サトーハチロー、平塚らいてう、室生犀星、そして竹久夢二など、他にも大勢の
文士達が住んでいました。
駅前には文士村記念館もあり、当時の作家たちを紹介しています。
JR田端駅の北口から左手に歩き、急な階段を登った先に芥川龍之介の住居跡があります。

今はこの案内板しか残っていませんが彼はこの地に大正3年(1914年)から昭和2年(1927年)までの
13年間生活し、「蜘蛛の糸」「羅生門」などの作品を書き、やがてこの地で服毒自殺するのですが、
残された子どもへの遺書では
「わが子等に
一 人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず
〜(二、三省略)
四若しこの人生の戦ひに破れし時には汝等の父の如く自殺せよ。但し汝等の父の如く 他に不幸を及ぼすを避けよ。
〜(五以下省略)」
と残していますが、友人へは「唯ぼんやりとした不安」を死の理由として書いています。
子等へは、妥協せぬ生きかたを望みますが半面、生きる事への重圧感にさいなまれていたのでしょうか。
そこから通りを渡った先に東覚寺があります、ここには赤紙仁王というユニークな石像があり、江戸時代からここで配られた赤紙
を痛いところにはると治癒するといわれたそうで赤紙だらけの金剛力士像はお礼詣りなのでしょうが、苦しそうでした。

右の写真は蜀山人が文化14年(1817年)につくったといわれる雀供養塚です、刻印された文字は
判読できませんが「むらすずめ さはくち声も ももこえも つるの林の 鶴の一声」と云われているそうです、
庶民の生活に口をはさむ時の施策を皮肉った狂歌でしょうか....

東覚寺の先に大龍寺があります、小さいお寺でしたが、ここには正岡子規の墓と講道館四天王の一人
だった横山作次郎の墓がありました。

大龍寺のとなりには田端八幡神社があります。
境内にある児童公園ですが、かってここには紅葉館という
下宿屋があり、堀辰雄が投宿していたそうです。
近所には、菊地寛、 室生犀星などの作家、詩人も
居住していたようですが、標識がなければかってこの地
に多くの作家たちがすんでいた事を知る事すらないでしょう。
ここから上中里方面へ1キロほど歩くと旧古川庭園があります。
明治の政治家、陸奥宗光の別邸だったそうで、その後彼の二男が
古川財閥の養子になり、 古川家の所有 になったと案内書には
記載がありました、庭園は落ち着きがあり趣味のよさを感じさせます。
これから5月に訪れる人には多くの種類のバラが楽しめるでしょう。
あたたかい一日をのんびりと過ごしましたが、帰りは上野公園に立ち寄りました、公園内の喧躁から遠ざかった
寛永寺の桜は綺麗でした、すれちがった女子高生の会話は日本に産まれてよかったといっていました。
