品川宿

レトロな煉瓦塀をみながら、目黒川にかかる鎮守橋を渡ると、その先に

海徳寺があり,よってみます、石仏の数も多くありましたが、気にいったのが

この石仏

すでに、顔の表情もみれないほど、朽ち果てた石仏です。

幾星霜ずっと、世の中をみつめ、やがて人のなすことにあきれ果て、顔をうしなったかもしれません、

そんな他愛のない事をかんじてしまいました。

  

街道沿いにはこんな、畳屋や病院もありました。

その先にあるのが海雲寺、火防の神をまつってあるそうです。

   

境内のポンプがなかなか新鮮にかんじました。

 

このへんはもう立会川付近になります、立会川から合流した勝島運河にでてみると、菜の花であふれ、足の疲労を回復させ、

のんびりさせてくれました。

裏通りへはいると、城東地区とかわらぬ下町風景があります、昔こんな場所にいた感覚がよみがえるようなおもいがします。

立会川の先は鈴ヶ森処刑場跡です、ここには丸橋忠弥が磔となった磔台の台座や八百屋お七を火あぶりにしたその台座

がのこされていました、あらためて江戸はまじかにあった事がつたわってきましたが、処刑場はあまりちかずきたくない場所です。

鈴ヶ森から第一京浜をわたり、品川方面にもどる途中、海蔵寺があります、首塚の一部の写真ですが、

鈴ヶ森で処刑された罪人の首、品川の牢屋で病死した人や、品川の遊女の人々を合葬しているそうです。

えにしのきれた人達は忘れさられてしまいましたが、楽しかったひとときをすごした事もあったのでしょうに、今はここに祀られていました。

途中のたしか、本光寺の山門と境内にあった花、あでやかな緋色にひかれました。

   

本光寺から第一京浜をわったところにあるのが妙連寺、鈴ヶ森で磔になった最初の罪人、丸橋忠弥の首塚があります。

慶安4年(1651年)に由比正雪と反乱を企てた事件でした、テレビや映画で見た記憶があります、たしか槍の達人でした。

この事件を境に幕府は大名家の取り潰しを減らしたといわれ、忠弥も役にはたったのでしょうか....

右は、薄雲太夫の墓、彼女は吉原の三浦屋の遊女で、当時数人しかいない太夫とよばれた美女だったそうです。

通いつめ、仙台藩の三代目藩主伊達綱宗がみそめ、薄雲太夫とおなじ体重の金を積み上げ身請けし、側室になったという

ロマンチックな話しがのこっています。

ただ、それは同じ三浦屋の高尾太夫だという説や、もともとそんな事はなかったという説もありますが......

薄雲太夫大は大の猫好きで、花魁道中では愛猫「たま」をいつも抱いていたという、招き猫の由来はここが発端だそうです。

宝井基角は「京町の猫通いけり揚屋町」と歌い、吉原の京町の風情をあらわしています。

妙連寺の先には東海寺があり、工事中でなかにははいれませんでしたが、墓地はそこから10分ほど歩き、JRのガードをくぐり

すぐ右へまがり登りきった坂の上にありました。

ここには、かの沢庵禅師のお墓があります、徳川家光、柳生宗矩もしたったとされますが、誰もがしっている沢庵漬けの

発案者といわれています。

お墓の石も漬物石のようでした、つぎは五月連休にどこか散策を....

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