品川宿

JR品川駅から10分ほど南へあるいた京浜急行の踏み切り手前の八ッ山橋から先が品川宿場跡らしい。

八ッ山にはこんな道標があります、箱根駅伝の中継で見た記憶がありました。

先の踏み切りをわたると狭い商店街がずっと続きます、ここが旧の東海道、道幅の狭さは当時

のままの3間だそうで、車がとおりにくいため、歩く人にはきままに歩けてよい旧街道です。

 

ところどころにはお休みどころや、案内所もあり、散策マップも配布していて、近代化されたイメージしかない

品川にはこんな場所も残されていました。

 

左の写真は土蔵相模跡との事で、江戸時代は食売旅籠という遊女屋さんの相模屋の跡地だそうです、海鼠壁が土蔵

のようにひろがっていたそうです。

江戸末期には井伊直弼襲撃の打ち合わせのため水戸浪士達がここに集まって準備したとの事、文久2年には高杉晋作、

伊藤博文、井上馨、など長州の攘夷派13人が、ここで密議をし御殿山に建設中の英国公使館に放火したそうです、

日本の近代化の礎をきずいた明治の元勲も、もとは放火犯だったとは....

右は問答河岸跡の石碑、由来は1640年徳川家光が東海寺の沢庵禅師をおとずれ帰城のとき、この河岸で家光が

「海に近いのに東(遠)海寺とはこれいかに」と問うたそうで、沢庵は「大軍を率いても将(小)軍というがごとし」

と返したそうです。家光にもこんな風流人の心があったのでしょうか...

街道筋より少し左に入ると船溜まりがあり、屋形舟が係留され、近所には古い民家ものこっています。のんびり

屋形舟で当時をしのんでみたい....

 

左の写真は鯨塚、江戸の寛政時代、前日からの暴風雨で品川沖に鯨が迷い込み漁師が総出で捕らえたという、将軍

家斎も見物したとかで、その頭の骨をこの利田神社に弔ったそうです。

右の写真は台場小学校の入り口にある、日本で3番目に古いという洋式灯台があります、灯台の礎の石は黒船

来襲に備えた砲台の台座となった石だそうです。

  

再び、街道へもどり、右手に少しはいった法善寺にある流民叢塚碑の石仏、天保4年から10年ぐらいまでの間に

日本全国では、冷害などの異常気象がつずき、食べ物はなくなり巷には流民があふれたという。

ここ、法善寺には品川に流れ着いた流人約1000人ちかくが行き倒れとなりその半数がここに供養されているそうです。

石仏の表情はただただ、虚空を映していました。

右はその先正徳寺裏手あたりにつずく煉瓦塀、元は工場跡地だったそうですが煉瓦のやわらかさ、手に伝わる感触が

どことなく、郷愁をさそいます。

品川散策記は途中となりますが、この続きは来週にしたいとおもいます....花粉による体調不良....

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