先日、テレビをみていたら、森光子が帝国劇場での「放浪記」公演で2000回を達成したそうです。

1961年初演からだそうで、40数年公演していることになります、さすがにでんぐり返しはやめたそうですが、

体力的にはそろそろ厳しいとおもいますがいつまで公演するのでしょうか。

「放浪記」は林芙美子 の自伝的日記ですが、森さんのおかげ有名になった小説でした。

先日新宿歴史博物館を訪れ、林芙美子記念館がある事を覚えていたので訪れてみました。

最寄りの駅は西部新宿線の中井駅です、駅前は神田川と合流する妙正寺川があり、その川沿い

にびっしりと飲食店が軒を連ねています、地名の落合は川が合流するから来ているとか。

  

このあたり一帯は坂が多く駅側から順番に一の坂、二の坂と八の坂まであります、ここ新宿区落合近辺は昭和の初期に林芙美子、

宮本百合子、武者小路実篤、吉川英治、壷井栄などの文人が多く住み「落合文士村」とよばれていたそうです。

壷井栄は「二十四の瞳」でおなじみですね。

林芙美子記念館は四の坂をすこし昇った途中にありました、やっと小説が売れ、昭和16年にここに家を建築し晩年の昭和26年まで

暮らした家だそうで、数寄屋風の落ち着いた家で彼女の家へのこだわりが感じ取られました。

  

写真は寝室と次の間だそうです、庭には、孟宗竹がびっしりとあったそうですが、今はわずかに当時をしのんでいます。

彼女は明治36年福岡県の門司で産まれ、行商をする両親とともに、各地を転々としたそうです、「放浪記」からもその冒頭で

「〜私は宿命的に放浪者である。〜」と書いています、「放浪記」では放浪者としての生臭い生活が描かれていますが、大部分

はその経験からきているものとおもいます、文中で神戸にたちよった時では「古ぼけたバスケットひとつ。骨のおれた日傘。

煙草の吸殻よりも味気ない女。私の捨身の戦闘準備はたったこれだけなのでございます。」

と語らせています。

彼女の捨身の人生観はこうして形成されたのでしょうが、「浮雲」ではめぐりあった男女が悲劇的に別れ、生き残った男のさまを

「〜まるで、浮雲のような、己の姿を考えていた。それは、何時、何処かで、消えるともなく消えてゆく、浮雲である。」

と書いていました、人生の危うさについては骨身にしみていたのでしょうか。

彼女は昭和26年6月28日に亡くなり、葬儀委員長は川端康成氏でした、弔辞で彼は「故人は自分の文学的生命を保つため、

ほかに対して、時にはひどいこともしたのでありますが、あと一、二時間もすれば林さんは骨になってしまいます。

死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか故人をゆるしてもらいたいと思います」

厳しいたむけの言葉でしたが、ライバル作家への妨害があったためだそうですが、つらい人生が彼女をそうさせたのでしょうが、

作品は作品、生き方は生き方なのでしょう。

ここをあとにしてしばらく歩きその先、八の坂の上に御霊神社があります。

  

狭い境内ですが、倉庫の裸電球がなかなかいい雰囲気でした、御霊神社は不運にもこの世に恨みを残し亡くなった霊を鎮めるために

建立されますが、ここの御祭神は仲哀天皇、 応神天皇、 神功皇后、 仁徳天皇、 武甕槌命だそうで、御霊信仰とは関係がなさそうです。

  

中井御霊神社から、30分ほど東へ歩き山手通りを超え、新目白通りを渡ってその先に、わかりにくい場所でしたが、

佐伯祐三旧居跡があります、明治31年に産まれ現在の東京芸大で絵を学び、ここで居住したそうです、その後大正12年にフランス

にわたり、2年後の1926年に帰国し二科展にフランスで描いた作品19点を出品しすべての作品が入賞したそうです、応募点数約3,000点、

そのうち入賞作品が269点だったそうです。

その後、再びフランスへと渡ったが1928年8月30歳で夭逝したそうです。

このアトリエ跡には画家の家らしい雰囲気があります、庭のカルミアが綺麗でした。

      

そこから20分ほど先にあるのが東長谷寺薬王院です、奈良長谷寺の末寺だそうで、広い境内があり、

江戸時代のものと思われる灯篭、石仏が多く残されていて心がやすらぎます。

    

また、この寺は奈良の長谷寺から移植された牡丹が有名だそうで1000株もあるとか、もうすこし早い時期におとずれたかった。

薬王院をでるとほどなく高田馬場駅にでます、駅前は都会の雑踏でしたが、駅前で演奏していたチンドン屋がなつかしかった。

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