日暮里駅を降り駅前を右折し狭い小路を進むと、5分もしないうちに羽二重団子があります。

 夏目漱石の小説「吾輩は猫である」の中で

 「〜芋坂へ行って團子をくいましょうか〜」

 と書いてあるのがこの団子屋さんです。

 店の手前の王子街道の道標を右折すると芋坂

 です。

 

 会社のお土産にと店にはいったのですが、

 今日中にお召し上がりくださいとの事で....

 

 

 

 

 

 

 

団子屋の真向かいに善性寺という日蓮宗の寺院があります、縁起によれば1487年の建立で徳川6代将軍の生母

長昌院が1664年にまつられて、以来、徳川家ゆかりの寺となったそうです。

戊辰戦争では彰義隊の屯所となっていたそうで、上野の山から敗走してきた彰義隊は芋坂

を駆け下りてきたといわれています。

  

境内にあるこの「不二大黒天像」は安土桃山時代の作だそうです。

このお寺は著名人の墓もあり、入ってすぐ左手に石橋湛山のお墓、また69連勝で有名となった横綱、

双葉山のお墓もあり、越智松平家の墓所もここにあります。

  この碑は旧濱田藩の戦死者の慰霊碑です。

  幕長戦争、鳥羽・伏見の戦いで戦死した死者の霊を弔うために

  旧濱田藩有志によって明治19年に建立されました。

  碑の裏面に記載された人のうち、鳥羽・伏見の戦いでの死者

  を除いた12名は、なぜか昭和8年に靖国神社に合祀されています。

  賊軍が靖国神社に祀られるのは不思議としか言いようがないのですが、

  石原莞爾陸軍少将らの長年の請願運動の成果だそうです。

  彼らにはそれでよかったのどうか疑問ですが.....

 

 

 

 

 

 

 

そこから山手線側に戻ったところに正岡子規の旧居跡があります、20代後半の明治27年にこの地に松山から移り住み、8年間住み、

34歳でなくなるまでここですごしたそうです、この家は昭和24年の戦災で燃え、2年後に再建されたそうで、落ち着いた住処という感じ

です、彼の「小園の記」では 「我に二十坪の小園あり。園は家の南にありて上野の杉を垣の外に控へたり。場末の家まばらに建てられ

たれば青空は庭の外に拡がりて雲行き鳥かける様もいとゆたかに眺めらる〜」とかいています。

その短編の最後にはこの句でしめくくっています「ごて/\と草花植ゑし小庭かな」ほんとうにごてごてと、そして雑然とした庭でした。

旧宅跡の丁度真向かいに書道博物館があります、書家の中村不折のコレクションが展示されています、中国、紀元前の青銅器の古代文字

や、それ以降の拓本などがあり、書体の歴史をしることができます、多くは彼が日清戦争の従軍記者として渡中し収集したそうですが、

現在ならほとんど持ち帰る事は困難な事でしょう、すこし複雑でした。

  尾久橋通を越え約10分ほどのところに「御行の松」があります。

  西蔵院の境外の不動尊の中にありますが、現存するのは三代目とかで、写真にあるのは

  初代の松で、昭和元年に天然記念物に指定されたそうで、樹齢350年ほどでその数年後

  には枯れてしまったとの事です。

  樋口一葉は小説「琴の音」で 

  「〜御行の松にかぜ音さびて、根岸田甫晩稲かりほす頃、〜」

  と後半の出だしの文で情景を表現し、流れる琴の音で荒みきった少年の心を洗い流すという文脈

  のなかで、演出効果をだしています。

  きっとそれほどまでも御行の松は美しかったのでしょう。

 

 

 

 

 

このあと、鴬谷駅へ向かい、法昌寺から寛永寺墓地へと歩きましたが、また改めて......

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