今年、最初の散策は日本橋です、いままでは何度となく通り過ぎ、ここを目的地として歩く事はなかったのですが、
改めて訪れる事にしました。
日本橋では昼食からスタートを決めていましたので、以前から行きたかったところ、昭和初期から営業していたという
洋食屋の「たいめいけん」でその店のオムライスを目当てにしていたのですが、1時すぎというのにこの行列でした。
「たいめいけん」は、また今度ということで、友人がすすめてくれた三越の向かいの裏通りにある、
天丼の店「金子半之助」、天丼880円で安くて、うまいから一回いってみて!
といわれていたのですが......ここもこの行列、昼食に時間をとられてもしょうがないので
結局、ウインナーバーガーとビールであっさりと昼食は終了。
日本橋は名前のとうり、日本橋川にかかる橋の名前ですが、だれもが知っている江戸からの道路の出発点
ですね、ここより北へは中山道、奥州街道、日光街道、西へは甲州街道、南へは東海道ですね。
こんな標識がありました。
道路の起点を示す日本国道路元標だそうですが、これはレプリカで本物は、道路の真ん中にあるそうです。
日本橋のたもとから川めぐりのクルーズがありさっそく乗船してみました。
船からの景色はこんな感じで、橋の下を通過するときは手をのばせば橋の下にさわれます、船からの日本橋の麒麟像はちょっと
違った感じです。
船のツアーガイドさんの説明を聞いていてついつい数日後に映画「麒麟の翼」をみてしまいました。
日本橋三越本店の前のライオン像ですね、母に連れられて見たライオン像の大きさにビックリした記憶があります、
なんでもイギリスのトラファルガー広場のライオンをまねてつくられたそうです。
右の写真は三越の隣にある三井本館です、威厳がかんじられる建物ですね、1929年に震災の後、建て替えられたそうですが、国の
重要文化財で、関東大震災の2倍の震度にも耐えられる構造だそうです。
三越の向かいの裏通りには按針通りという通りがあります、慶長5年(1600年)にオランダのリーフデ号という船が豊後(大分)の国
に漂着し、その水先案内人のウイリアムアダムスともう一人が江戸に招かれ、幕府に貢献した事で、日本橋のこの地に屋敷を与えられ、
三浦按針という名前で帰化したことにちなんでいるそうです。
日本橋の裏通り、隅田川までの一帯は戦災で空襲の被害も多くありましたが、わずかに焼け残った建物があります。
ほとんどは民家ではなく、いまでも営業をしているようです。
昔はこんな風景があちこちにあったのでしょうね、路地から子どもがでてきて、飛びまわっていたのでしょうが、もう、子どもの
姿は日本橋には少ないようです。
ここは十思公園 にある「銅鐘石町時の鐘」で、江戸府内におかれた最初の時の鐘だそうです、周囲48町に響き渡ったそうですが、時計のない生活
では貴重な存在だった事でしょうね。
実はこの公園は、小伝馬町の牢屋敷跡なのです、当時は2618坪あったそうですが、今は数百坪ぐらいでしょうか、
かの吉田松陰もこの地で処刑されました。
公園内にあった吉田松陰の終焉の地の石碑と、道路の向かいにある、処刑者の霊を鎮めるために建立された「大安楽寺」
前の標識がこの場所が当時への想像を呼び起こしてくれます。
石碑には松陰の辞世の句が刻まれています。
「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ぬとも 留め置まし 大和魂」 と刻まれていますが、無念さが滲んだ辞世ですね。
左の写真は谷崎潤一朗生誕の地を示すレリーフ、ちょうど蠣殻銀座跡のとなりにありました。
都教育委員会の説明文を引用すれば
「〜江戸の銀座は慶長十七年(一六一二)に今の銀座二丁目の場所に置かれ、その百八十八年後の寛政十二年(一八〇〇)六月に、
寛政改革の一つである銀座制度の大改正のため一旦廃止されました。
その年の十一月、改めてこの人形町の場所に幕府直営の度合いを強めた銀座が再発足しました。
当時この付近の地名が蛎殻町だったため、この銀座は人々から「蛎殻銀座」と呼ばれ、明治二年(一八六九)に新政府の
造幣局が設置されるまでの六十九年間存続しました。」
とあります。
右の写真は、人形町三丁目付近にあった通りの名前の標識。
江戸の初期に最初にできた公認の遊郭がこの場所に元吉原という名であったそうです、その後浅草に新吉原として移転
になり、地名だけが名残を留めて」いるようです、吉原大門の通りが有ったことを...
散策の終わりに、吉田松陰の言葉を引用します 「夢なきものに理想なし 〜(省略)〜 故に夢なき者に成功なし」
夢なき者に幸せなしのほうがいいとおもいますが....