3月17日風が冷たい日だ、3月は暖かい日が続いていて、つい薄着で出てしまったのがつらい。

今年最初の散策は茗荷谷からスタート、茗荷谷は東京メトロ、丸の内線の後楽園駅のとなりの駅、降りるのははじめてですが

駅前はごちゃごちゃとした町で、せまっくるしい感じの町並みが続いています、又、やっぱり文京区は坂がおおいのを実感しました。

江戸時代は茗荷の産地だったとの事ですが、当然今はもうそんな面影はありません。

駅前から数分ですぐ林泉寺、ここには「しばられ地蔵」があります、お地蔵を縄でしばると、願いがかなうとかでやはり緊縛状態でした。

  

となりの写真は林泉寺からわずかのところにある深光寺の境内の石仏群、雑草の中の斜面から町を見下ろしています。

この寺には南総里美八犬伝の作者滝沢馬琴の墓がありました、彼の墓の後ろには息子の嫁「路」の墓があります、馬琴は晩年失明状態

で、「路」に口述筆記させたそうで、なんともすごい執念です、下左の写真が路女の墓です。

右は、深光寺をでて、丸の内線ガードをくぐらず右への急勾配をのぼりきった場所にあった、切支丹屋敷の跡地。

いまはただ碑だけが、当時そこに切支丹屋敷があったことを示しています。

1792年徳川吉宗の時代の享保9年火事で消失し以降再建されなかったそうですが、おびただしいクリスチャンが投獄され、殉教しました。

イタリヤの神父シドッチも密入国のうえ捕らえられた後、この地で投獄され獄死しましたが、彼に接していた牢番夫婦は洗礼を受けたという。

こうまでして牢番をひきつけたもの...

信仰への信念、それなくしてはこの世界は生きていけなかったのかもしれません、今はどうでしょうか......

 

 

  

路をもどり、丸の内線ガードをくぐり、春日通りをわたると、今度はゆるい下り坂がまっています、左側の裏通り、わかり難いところにいきたかった場所があった。

石川啄木終焉の地です、自販機に圧倒され道路においやられそうな感じの石碑はとりあえず、この場所が玄関2畳、部屋が6畳、8畳の2間、外に台所の貸家で、

妻子、父との4人の暮らしていた場所です。

啄木は歌集一握の砂で「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな とうたっています。

盛岡市、そこからは北に岩手山と姫上山が美しく綺麗な稜線を描いています、ふるさとは啄木にとっては病床から、弱気となる心の支えだったのでしょうか.....

26歳...若かったですね。

  

右は、そこから10分ほど先の小石川療養所があった小石川植物園で咲いていたみずきの花、すがすがしくきれいでした。

そこから先は、円乗寺、本念寺、大円寺、高林寺、養昌寺、そして吉祥寺などお寺があります、文京はお寺の多い町です。

本念寺には江戸の狂歌師、大田南畝の墓がありました、辞世の句は「生き過ぎて七十五年 食いつぶし 限り知らぬ天地の恩」粋ですね。

  

左の写真は円乗寺にある、八百屋お七の墓、天和の大火で焼け出された八百屋の娘お七は円乗寺に避難し

そこの寺小姓をすきになったという、当時16歳。再会のため放火してとらえられ処刑されたという。

放火は未遂でおわったのがよかったかもしれません、死者がでていれば悪女で有名になっていたかも.。

右は高林寺にあった緒方洪庵の墓、有名な蘭方医。下左は同じ寺にある岡麓の墓、あまり有名ではないように思いましたが...

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

 

  

右の写真は探すのに30分以上かかりました、やっと見つけたときは感激で、これでかえってもいいとおもったほど。

戒名がよめるでしょうか、真ん中の戒名です、このために今日ここへきました。

竹久夢二の恋人「彦乃」の墓です、墓地の中ほどやや右手の岡麓の墓の近くにあり、笠井家の墓に戒名が刻まれていました。

戒名の下には大正九年一月十六日とあります、25歳でなくなった薄幸の人でしたが、やはりさびしい墓でした。

 

  

ここは、養昌寺、半井桃水の墓がありました。一葉の思慕だった人、一葉は24歳で夭逝しましたが彼は65歳までいきたという。

彼女の事はどれだけおもっていたのだろうか、もうなにも伝わってはきませんが.....

養昌寺入り口の狛犬、今日まわったお寺の狛犬のなかで一番つたわるものがありました。

  

最後は、吉祥寺、ここはおおきな墓地があります。すでに縁がきれた、くちはてた墓石もおおく、時代はかわっていくことを感じさせます。

左の写真は「二宮尊徳」の墓にあった記念碑、昔はどこの小学校にもあったような気がします。生活は苦しくとも勉強しろというかってな文部省の方針.....

右は、「榎本武揚」の墓です、かなり広い場所の立派な墓でした。

彼と勝海舟は幕臣から明治政府へと転向しましたが、海舟は福沢諭吉からそれを非難され「行は我にあり毀誉は他人にある」といい、

気にもしなかったそうだが、榎本武揚は激怒したという。

榎本は新撰組副長土方歳三らとともに、旧幕臣を率い蝦夷地で函館政府を樹立し総裁となったが、函館五稜郭の戦で破れ生き残った。

五稜郭陥落前、自分もあとから行くと傷病兵に毒を配布したときいた記憶があります。

人のいきざまにとやかくはいえませんが、二人とも時代の子であり、それぞれを生きたのでしょう.......

今日はこれで。

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