日を増すごとに秋がやってくるような気がしてきます、どこか、近くでのんびりと歩ける
場所を探していたら松戸に 、戸上邸という徳川昭武が住んでいたという旧邸をしり
訪れてみました。
昭武は水戸家9代当主の水戸齊昭の18男として生まれ、13歳の時、御三家の清水家
を継ぐ事となった、そして水戸齊昭の7男は最後の将軍、徳川慶喜、兄である。
昭武はパリで留学生活を送り、明治維新で、帰国し、水戸の藩主となり、明治17年
に松戸に戸上邸を作り、この屋敷と水戸本邸(現在の隅田公園あたり)の両方を往き
きしていた。
門構えは落ちついた佇まいの感じで、大名屋敷とは異なった風情があり、
ちょっとした隠れ家風の門のようです。
門をはいると邸宅入り口付近は芝生広場となっていて散歩には落ち着いて
歩くことのできるいい雰囲気のコースとなっています。
邸内は部屋数は十数間ほどあり、玄関から上がると、客間、中の間
へと続く渡り廊下があります。
渡り廊下の先、二の間と客間の欄間には、葵の透かし彫りがあります、
徳川一門の家であること、また、かっての栄光を忘れないためでしょうか....
その表座敷棟からさらに廊下を行くと湯殿があります、湯船は小さく
こじんまりとしていて、冬には湯船から出ると、湯ざめがすぐ訪れ
そうな雰囲気があります。
その先にある、離れ座敷の秋庭の間です、丸窓からの風景がなごませてくれます。
この部屋は徳川昭武の生母、吉子女王が住んでいたそうです、吉子女王の父は
有栖川織仁親王で、吉子27歳の時に水戸家藩主徳川齊昭に嫁ぎ、昭武を出産
しました、当時の27歳の婚姻はかなりの晩婚だったとおもいます。
吉子の実家の有栖川家の九代目当主、有栖川熾仁親王は戊辰戦争で自らの意思で、
東征大総督となり徳川家征伐の旗頭となりました、皇族と徳川一門の政略縁戚は皮肉
な結果として終わりをつげてしまいました。
これは中庭に面した邸宅唯一の二階、女中部屋です、客間への渡り廊下に
面しているために、常に窓はこのように閉じられていたそうです。
ここは客間に面した庭園です、緑が基調として作られているようで清々しさ
がただよっています、庭園からは、かっては富士山が望めたとのことですが、
今はビルで遮られています、スカイツリーは木の合間からみえます、新旧
の景色の交代ですね。
戸定邸を後に、常磐線のガード下を抜けると、坂川にぶつかります、川幅は
10メートルほどの小さな川で、煉瓦でできた、レンガ橋がかかっています。
1898年、明治31年に江戸川の逆流防止のために作られたそうです。
その橋を背にしたあたりからの古い写真が碑となって付近にあります、
カメラ好きだった昭武が撮影したそうですが、写真に映っている人物は
徳川慶喜です、彼もカメラが好きだったようで、撮影中の後ろ姿が撮影
されています、彼はしばしば戸定邸を訪れて弟の昭武と親交を深めた
ようです。
かっては大勢の大名、家臣を従えていた時期もあったのに、のんびりと
漁をする人々を撮影していますが、何を感じていたのでしょうか...
同じ位置からの現在の坂川ですが、そんなには変わっていないようです。
せっかくなので、しばらく松戸市内を歩いてみました。
旧水戸街道にはこんなレトロな建物も残っていました。
松戸宿の提灯がかかっていますが、なかなか風情がありますね。
路上の雑貨店や、ガラス細工の店もあって、のんびりと歩きながら、お店を
覘いていると、なぜか優しい気分にさせてもらえます。
とうとう、江戸川のそばまで歩いてしまいました、ゆっくりと時間と
共に水が流れています。
今日はこれで帰途につく事にします。
2013年9月10日記。