京王線の明大前から今回散策してみることにしました。
駅前周辺は近所に明治大学和泉キャンパスがあるせいか、
落ち着いた駅前周辺です、駅から首都高4号線方向、明大キャンパス
方面へ歩いて、高速4号線の陸橋をまたぐとキャンパスが見えてきました。
アカデミックな建物の手前を左にまがり高速沿いの
狭い道を進むと程なく右手に築地本願寺和田堀廟所があります。
ここ和田堀廟所は1923年の関東大震災で築地にある本願寺が被災
し、この地に墓地を移転したそうです。
この本堂は1945年の東京大空襲で消失し1948年に再建した本堂
です、築地の本願寺も以前は浅草にあり明暦の大火で築地に再建
され、考えてみると江戸時代から首都は火事、地震、空襲と
災難続きでした、首都直下地震も最近云われていますが、都民は
この地、東京でときおり、地震の事を考えながらも暮らしていくしか
ありません。
ここに訪れた理由は樋口一葉の墓地を訪れたかったからでした。
1896年11月23日24才6ヶ月を迎えた時、肺結核で一葉は他界し、
菩提寺である本願寺に埋葬されました。
墓前には花が活けられ、珈琲が供えられてありました。
彼女の代表的作品の「たけくらべ」「にごりえ」はポピュラー
な作品ですが私は、このタイトルの付け方に興味を覚えていました。
「たけくらべ」は平安時代初期の作品伊勢物語の第23段「筒井筒」
にでてくるくだりの内容から引用したといわれています。
筒井筒は丸くほった井戸の筒のことで幼なじみの男女が昔その筒
のそばであそび互いに丈くらべなどをしていました、年がたち、
久しぶりに再開した二人は歌を交わします。
男は随分合わぬうちに私の背丈は筒井を超えてしまいましたと謡い、
女はおかっぱだった髪は肩まで伸び、あなたが結い上げぬままに
なっています。
とかえし、断ちきれなかった思いを謡いあげました。
その男女の思いを一葉は「たけくらべ」の主人公美登利と信如に重ねあわせた
のではないのでしょうか。
決して結ばれることのない少年と少女が大人の世界に入らざるをえない時期
を迎えるまでの心の変化をせつなく表現している作品です。
「にごりえ」は濁り江の事で濁って水の出入りがなくなった入江を意味しています、
平安時代末期の新古今和歌集1053番の歌にはこうあります。
「濁り江の すまぬことこそ 難からぬ いかで ほのかに影をだに見ぬ
詠み人知らず 」という歌ですが、歌の意味は 濁り江が澄むことがないように
あなたと住む(澄むにかけて)事はむずかしいでしょう せめて水に映るあなたの
ほのかな影をみていたい という意味だそうです。。
一葉の作品の「にごりえ」ではこの歌のようなせつない思いを描いた作品では
なく、文字通りの濁り江に住んでいる「お力」という女性の生き様を描いています。
作品では濁り江は作者、一葉が住んだ場所の近くにある銘酒街の事を意味して
います。
濁り江から出ることも叶わず、かってはそこに出入りした男に無理心中
させられるお力の語った濁り江の世界に住む娼婦たちの姿を紹介し、また、
無理心中させた源七一家の生活、源七の妻お初の姿を語り、最後に
自らの嫌でしょうがなかった生き方を終わらせた女の物語です。
こう書けばなにか薄暗いドロドロとした怨念のこもった感じがしますが、文章
文体からかんじるのはどこか江戸の浄瑠璃本の雰囲気があります。
最近の小説ではやたらと長い題名の小説が増えている気がします、又、
意味不明の題名もあり、それはそれで流行なのかもしれませんが、一葉の
作品では、作品の内容を暗示させ、独特の世界を描いています、それは、
読み終わった後にその題名の意味について奥深さを感じてしまいます。
彼女の墓所の前でそれらの作品を思い出しました。
このお墓は古賀政男さんのお墓です、とても素晴らしい曲を作曲しましたね、
夜中、一人で酒をのんでいる時に古賀さんの悲しい酒のギター曲を聞いていると
涙ぐんでいる自分があります。
なんともいえない叙情性があって心に響いてきます。
初代水谷八重子さんのお墓です、私にとっては二代目の
お嬢さんの水谷八重子さんののほうが有名ですが...
ユニークなお墓ですが、歴史小説をおもに執筆した作家の
海音寺潮五郎さんのお墓です。
西郷隆盛に関する作品が多いようです。
鹿児島出身の作家だけに思い入れがあるのでしょうね。
墓の後ろにあるオブジェクトは閉められた2枚の襖を現して
いるそうです。
内田吐夢のお墓です、碧川家と両家の名前が刻まれています、不思議
な印象をもって帰宅後調べてみました。
内田吐夢の妻は芳子といい、芳子の母、碧川かたは三木露風の母
でもありました。
女性解放運動の先駆けと言われた碧川かたは鳥取池田藩家老和田邦之助
の二女として生まれましたが、藩主とのいさかいがもとで病気となり、
かたは他家の養女となり勉学にいそしんだそうです。
やがて、見込まれて、三木節次郎と結婚し操(後の露風)を出産しましたが、
主人の放蕩により離縁し、操を嫁ぎ先に残し次男を連れて泣く泣く実家
へと帰りました、かた26歳の時でした。
その後、かたは養父をたより上京し、やがてジャーナリスト碧川企救男
と再婚しその三女が芳子でした。
内田は義母のかたと気があい生前から自分が死んだら義母さんと
一緒のお墓にはいりたいと言っていたそうで、その思いが墓に両家
の名が刻まれていたようです。
その横には「あかとんぼ母此処に眠る」と書かれた碑があります。
赤とんぼの歌の歌詞は三木露風の作詞です。
露風は三木方の家に残され、その頃の幼い記憶をたどりこの詩
を書いたそうです。
「夕焼け、小焼の、赤とんぼ、負われて見たのは、いつの日か。
山の畑の、桑の實を、小籠に摘んだは、まぼろしか。
十五で姐やは、嫁に行き、お里のたよりも、絶えはてた。
夕焼け、小焼の、赤とんぼ、とまっているよ、竿の先。
露風はこの作詞についてこう説明しています。
北海道函館付近のトラピスト修道院である日の午後4時ごろ
窓の外に赤とんぼが竿の先に長くとまっているのをみて
この詩を作ったそうです。
母の背ではなく家から頼まれた子守娘が露風を背負い、負われて
いる露風が見た風景で、やがて露風は大きくなり、子守娘は里へ
帰り、その後聞いた話でその娘は嫁に行ったという事でした。
背負われた露風にとっては母の背ではなかった事が心に焼き付け
られていたのでしょう。
話は大分それてしまいましたが、内田吐夢は映画監督であの大作
水上勉の小説飢餓海峡の映画監督で有名でした。
墓地には、弔われた人たちの様々な思いが記憶されているのでしょうね。
和田堀廟所をあとに少し神田川沿いを歩いてみることにしました。
神田川は三鷹の井之頭池を源流にして24.6キロの長さの川です、
歩いたあたりは上流まで約6キロ付近でした。
この橋の名前はこずえ橋、風流な名前ですね、この付近は、大きな住宅
が並んでいますが、神田川といえば「赤いてぬぐいマフラーにして〜」
とうたわれた曲がありましたが、この辺はそんな風情は感じられません、
歌の題材となった場所はどのへんなのでしょうか...
川の両側には桜の並木があります、春爛漫の時期にはきっと目を楽しませて
くれるでしょうね。
かなり歩き回り源流まで歩く気力もないまま西永福で電車に乗りました。
せっかく世田谷方面にきたので下北沢を少し歩いてみることにしました。
以前とは、お店の雰囲気も変わってきているようでした。
飲食店もチェーン店が増えてきていました、ファッション店もさほど
個性が感じられなくなった気がします。
昔のイメージが残っているのは、下北沢らしくはない商店街です。
立ち飲み屋がならび独特の風情がありますがここもまもなく
なくなりそうです、歩くのもやっと通りぬけるのが
精一杯で、立ち飲みもまたいいものですね。
本日の散策はこのへんで終了です。
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