神田付近
年があけて昨年の散策を書くのもちょっと...ですが、
12月24日、クリスマスイブ、家にいても落ち着かず、神田付近を歩いてみた。
下車駅は御茶ノ水、聖橋側の改札からでて橋を渡り湯島聖堂から神田明神へと歩きました。
聖橋は高さが比較的高く、神田川と地下鉄丸の内線、総武線、中央線と交通機関が見渡せ、橋の上からの眺めは飽きる事がありません。
橋の名前の由来はニコライ聖堂と湯島聖堂をつなぐことからきているそうです。
湯島聖堂は、孔子にゆかりがあり、さすがに受験祈願の人たちがおとずれ、絵馬もまたおおい、無事合格できればいいですね、
私も祈願していれば浪人しなくてもすんだかも....
湯島聖堂から5分も歩くと、まもなく神田明神につきます、明神前には甘酒などを売っている天野屋、三河屋など数軒がたちならび
ちょっとした門前町らしくなっています。
神田明神は730年に建立された神社とかで、中世になり、将門の首塚だった付近で天変地異が頻発したため、
将門の祟りと噂され神田明神に1309年合祀されたそうです、何故首塚が神田にというと、京都で晒された首が夜空に舞い上がり、
故郷の関東へ向い、数ヶ所に飛び散った場所の一つだそうです。
神田明神の名前の神田さえ、将門の「からだ」が訛ったといわれているとか...
平将門は朝廷へ反逆した関東の武将として有名で、死後多くの祟り伝説を残しているようです、中でも愛妾の桔梗によって、裏切られ
た事により、関東各地では、桔梗の花が咲かない場所があるという桔梗伝説が数ヶ所あります。
神田明神に祀られた将門ですが、明治にはいると、朝敵を祀る事が問題となり、1874年同敷地内の摂社江戸神社に遷座させられ
、戦後になりやっと神田明神へ合祀されたそうです、それにしても、お互いの因縁は将門死後千年以上もつずいていた事に
なります。
将門は朝廷により流刑された菅原道真の生まれ変わりという言い伝えもあります、道真が死んだのは903年、将門が
生まれのも903年、将門の父の知行は茨城の坂東、道真の三男は茨城の真壁で、これも因縁でしょうか、又将門を祀っている築土
神社では道真も合祀されているそうで、もっといえば将門の旗印は将門記によれば、守護神、妙見大菩薩が子どものなりで現れ
「〜将門の旗印には千九曜の旗をかかげよ」といったそうで、道真の旗も同じく千九曜ですが、この旗は多くの
豪族・武将がつかっていますのでこじつけでしょうか....
かなり寄り道してしまいましたが、ここから秋葉原をとおり昌平橋方向へ行きました。
神田川そばの総武線線路は高架となっていて、煉瓦が懐かしさを感じさせます。
その先は神田須田町付近、昔は行商人が使った背負子を連雀といったそうで、その職人が多くいたので以前は
連雀町といったそうです、江戸の町並みはこんな感じだったのでしょうか、左はあんこう鍋のいせ源、右は神田藪蕎麦
です、行列が長くはいれませんでした。
甘味屋さんの竹むらと鳥すきのぼたん、休日のせいか藪蕎麦だけ営業でした。
その先はもう神田神保町、書店街です。
この辺は以前と変わらぬ風景ですが、スポーツ店が増えてきています、右は時代物専門の書店です、
3階は、結構マニアックな書物もあり、三島由紀夫の憂国のポスターが5万円台で販売していました。
古本は買う予定がなかったのですが、結局、石川啄木の本と、竹久夢二の本をかってしまいました。
休日でも人ではおおく賑わっていました。
その先、神保町の交差点を左折すると、もう皇居になります。
左のモニュメントは学士会館にあった日本野球発祥の地の記念碑だそうでびっくりします、右は平川門。
渡櫓や高麗門が昔の姿をとどめていました、この門は御局門とよばれ大奥の女性達の通用門だったそうで、春日局
が門限に遅れ締め出されたとか、また、別名不浄門ともいわれ、城内の死人、罪人が出て行く門でもあったそうです。
浅野内匠頭、最近のドラマで話題になった、歌舞伎役者との恋沙汰で高遠に流された絵島もこの門から出されたそうです。
旅の最後は北の丸公園、左は旧近衛師団司令部、今は近代美術館工芸館です、中は現代工芸展を開催していました、
時代によって使い道はちがうようですが、残しておきたい建物です。
右は武道館でアルフィーのコンサートをやっていました、はいりたかったのですがカップルも多く、一人ではとあきらめました。
帰ってワインでも飲みながらCDを聞く事にします。
東京駅から有楽町へ向う途中の電飾、今日はさほどさむくはないイブでした。