今回は、亀戸あたりを散策してみることにして、JR総武線亀戸駅にて下車。

北口からにぎやかなアーケード沿いにまっすぐ行くと蔵前橋通りの交差点があります、そこを渡ると香取神社へとつずく商店街。

ひさしぶりに出前もちを見ました、自転車から飛ぶように降り、軽快な足取りで配達していました。

  

香取神社は、藤原鎌足が天智天皇4年(665年)東国下向の際この地に立ち寄り香取大神を勧請し太刀一振を納め

旅の安泰を祈願したのが始まりだそうです。

  

天慶の時代、平将門討伐のため俵藤太秀郷がここで参籠し、戦勝を祈願したという言い伝えもあるそうです。

   

その先、しばらく歩くと普門院があります、ここには伊藤左千夫のお墓がありました。

伊藤左千夫は「野菊の墓」で有名でしたね、2歳年上の従姉の民子との切ない恋物語の小説で、

民子の墓のまわりに民子の大好きだった野菊を一面に植え彼女を偲ぶせつない内容でした。

小説野菊の墓の最後の一文は

「  民子は余儀なき結婚をして遂に世を去り、僕は余儀なき結婚をして長らえている。

民子は僕の写真と僕の手紙とを胸を離さずに持って居よう。幽明遙けく隔つとも僕の心は一日も民子の上を去らぬ。」

でした。

普門院から数百メートル先に亀戸天神社があります,由緒は寛文元年(1661年)九州大宰府の神官が諸国巡りをして、たどりついた

江戸の本所亀戸村の天神の祠に天神像を奉祀したのが始まりだそうです。

 

ここは仕事で何度となく通過し、入りそびれた神社でもあったのでやっと念願かなって訪れることができました。

中は思っていたよりは広く、大きな池と本殿へと続く二つの太鼓橋があります。

     

左は塩原太助が寄進した石灯籠だそうです、彼は艱難辛苦のうえ一代で薪炭商人として豪商となり、義の人として有名でした。

両国付近に住み、「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と歌に謳われるまでになったそうですが、

二代目は放蕩のすえ一代限りだったそうです、こればかりは今も昔も変わりませんね。

 右の置物は境内の料亭の軒下にあったので....なんとなく。

  

亀戸天神社から横十間川沿いに歩くと龍眼寺があります、境内にあった釈迦像、隣は境内の鮮やかな紅葉でした。

  

龍眼寺の先にあった天祖神社、猫の額ほどの神社ですが、ほのぼのとした子地蔵とレリーフがありました。

 

帰る途中にあった船橋屋本店、文化2年(1805年)創業だそうで、子供のころよく母がここのくず餅を買ってきてくれた

記憶があります、きな粉をまぶしたあの味が懐かしい......

亀戸とはこのへんで。

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