本門寺には五重塔があります、この五重塔は1609年(慶長13年)
の建立で高さが約30メートル、高さでは上野の寛永寺の五重塔が
36メートルで勝っていますが、寛永寺の五重塔は1639年(寛永
16年)建立なのでこちらがやや古い建造です。
都内では浅草寺にも五重塔がありますが、第二次大戦で焼失して
1973年に再建された塔なので、この二つの五重塔が都内では
一番古いのでしょうか...
本門寺の塔は、2代将軍の徳川秀忠の乳母、岡部局の願いで
秀忠が建造を命じた五重塔だそうですが、さすがにその時代の
最高権力者が建立しただけに立派な五重塔です。
五重塔の手前にある墓は幸田露伴のお墓です。
1893年小説「五重塔」を発表しましたが、そのモチーフだった五重塔は谷中の天王寺の五重塔でしたが、その
五重塔は1957年に心中事件で放火され燃え尽きました。
露伴のお墓が五重塔のすぐそばににあるのも因縁でしょうか.....
この層塔は寿福院の生前供養のために建立された塔です。
上部が破損していますが、以前は十一層の塔だったそうです。
彼女は加賀藩主前田利家の側室で三代藩主利常の生母であった
ため、江戸御府内に15年間も住まわざるをえませんでした。
熱心な法華経信者だったそうで、各地に五重塔など建立しました、
人身御供の身となり故郷を遠く離れれば、心のよりどころは信仰
以外になかったのかもしれませんね。
ここは加藤清正の供養塔です、小学生の頃でしょうか、朝鮮征伐
で虎退治をしたのが清正の最初の記憶でした。
この供養塔は清正の五番目の息女八十姫(遥林院)、紀州徳川家の
祖となった徳川頼宣の正室ですが、清正の38年目の回忌1649年に
建立した供養塔だそうです。
清正は本門寺の総門の前の96段の坂道を寄進し、その坂は此経難持坂
(しきょうなんじざか)と呼ばれているそうです。
この墓は狩野探幽をはじめとする狩野家の墓です。
探幽は江戸時代の画師で有名でしたね。
わずか11歳で徳川家康に謁見し、16歳では徳川家
の御用絵師になっていたということから、今でいえば
天才画家になるのでしょうか。
下の写真は紀州徳川家の墓所です。
一番手前は、徳川家康の側室のお万の方(養珠院)で紀州徳川家の初代藩主徳川頼宣、水戸徳川家初代
藩主徳川頼房の生母で有名でした、徳川光圀は彼女の孫になるそうです。
幼名が養珠なので養珠院なのでしょう、伊豆近隣では絶世の美女であった養珠は16歳の時、
当時53歳の家康にみそめられ側室となったそうですが、まさに徳川家の礎といってもいいでしょうね。
この墓は本墓ではなく、江戸で77歳で亡くなり、本門寺で荼毘にふされ、その後、遺骸は甲州大野
に送られ本遠寺に祀られているそうで、ここは供養塔になるのでしょうか。
供養塔の奥にある墓は天真院(紀州藩主徳川光貞の正室)、遥林院(徳川頼宣の正室)、
霊岳院(徳川光貞の三女)の墓です、この墓所は本門寺境内の奥まった場所にあり、寛永寺の徳川家墓所
とは程遠く、だれでも立ち入りができ、整然と手入れがされている様子もなく、徳川総家と御三家の差
を反映しているのでしょうか...
ここは、大坊本行寺、日蓮宗の祖、日蓮上人の臨場の地だそうです、ひっそりとした寺でした。
本門寺は境内も広く、大きな墓所も点在し、散策も一日がかりとなりましたが、歴史上の人物の存在を感じる
事ができました。