やっと9月に入り、空は時々うろこ雲があらわれ、少しばかり秋色の気配をみせはじめています。
けれども、まだまだ日中は あつい日差しがてりつけ、日中の散策はがまんくらべ出場の気分です。
先月のなかばに買い物のついでに本郷周辺にたちより散策しました。
ここは無縁坂、左 側に続く長い煉瓦塀は旧岩崎邸の塀です、大正4年12月、竹久夢二と笠井彦乃
は、連れだってこの坂を歩きました、「夢二日記」では
「池の端へ出て
岩崎のうら道からまた大学の裏門へ出た。
しづかにさようならをした、 ほんとに何気なく。
Sheは門のうちへheは左へ折れた。
そこにお家騒動でもありさうな門がある、 またあつたのだ。」
と書いています、この坂は当時のままなのでしょうか、大正4年は妻たまきと別れ彦野と結ばれた年でした。
いまではこの坂はさだまさしの歌で有名になった事を知る人のほうが多いでしょうね。
森鴎外は明治44年に小説「雁」で無縁坂を舞台にしています。
「 〜そのころから無縁坂の南側は岩崎の
きたない石垣が築いてあって、
さだまさしの無縁坂の歌詞の中で「〜忍ぶ、忍ばず無縁坂〜」という一節がありますが、小説「雁」の中の女性「お玉」
の薄幸な人生と重なってしまいます。
無縁坂を上りきる途中に講安寺というお寺があります。
本堂は珍しく土蔵造りとなっています。
大火の多かった江戸時代に防火のためにつくったそうです。
この寺にもう一つ寺があり、無縁寺という名前だったことから
坂の名前はここからきているそうです。
坂をのぼりきり左へ曲がったあたりが麒祥院です、以前このホームページで紹介しましたが、
三代将軍徳川家光の乳母、春日局の菩提寺です、綺麗に手入れをされた中庭が、夏の
日差しをやわらげてくれました。
麒祥院の通りを後楽園方面に向かい本郷三丁目の交差点にかねやすという洋品店があります。
柱に刻まれた江戸の川柳のプレートがあります。
「本郷もかねやすまでは江戸のうち」とあります、1730年(享保15年)に大火があり、当時の
町奉行大岡忠助はここより南は土蔵造塗屋、蛎殻葺きを新築の際の条件として命令したことから
由来しているそうです。
本郷三丁目から南へ十数分下ったあたりに東京都水道歴史館 があります。
この写真は江戸時代に上水を中継した木管で、遺跡から発掘したものです。
江戸は家康が江戸入府に先立ち上水を考え、最初が小石川上水、次に神田上水と進め、
人口の増加にともなって、玉川から上水することになったそうです、1653年から8ヶ月かけ完成したそうですが、
武蔵野大地から43キロ、高低差92m だそうですごい努力ですね、
その後の東京都への水道の推移などが見学でき、一度はいってみる価値はあると思いました。
最後に訪れたのは昌清寺この寺の開基は昌清尼という方で、二代将軍秀忠の子の国千代の乳母です。
国千代は竹千代(後の家光)との将軍争いに敗れ、後に忠長として55万石の領主として駿府城に居を
構えましたが、行動は異常を極め自害させられた人でした。
乳母の於清も夫人とともに剃髪し忠長の菩提を弔うために開いたといいます。
家光の乳母の菩提寺のすぐ近くに忠長の乳母が開いた寺があるのもなにかの因縁でしょうか.....
今日の散策はこのぐらいで....