5月連休の最中、世田谷へと行くことにしました。
昔、世田谷城があった辺りですが、もちろんいまではお城はありません、土塁ぐらいは残されているようですが、
中心部は豪徳寺あたりだそうなので、訪れてみました。
世田谷城は14世紀後半から15世紀前半ごろの室町時代に、この地の領主だった奥州吉良氏が構えていた居城
です。
豪徳寺は小田急の豪徳寺駅から歩いて10数分、あとは東急世田谷線の宮の坂駅から5分くらい、といっても世田谷線
でいくには京王線の下高井戸から乗り換えしなければならず、どちらかというと不便。
このお寺は当時の世田谷城主の吉良政忠が伯母の菩提を弔うため1480年に建立されたのが縁起だそうで、その後、
1633年世田谷が彦根藩の所領となり、藩主であった井伊家の菩提寺となったそうです。
その当時からのこっているのは仏像数体、仏殿、石燈籠、そして梵鐘だそうです、石燈籠の後に仏殿がみえますが風格
を感じます。
境内はわりとひろびろとし、落ち着いた雰囲気がただよい、ゆったりとした時間がながれていくようです。
この寺は招き猫の発祥の地、ともいわれています、井伊直孝をこの寺に招き入れたのが猫で、寺院に入ると外は大雨となり、
その縁で豪徳寺は繁栄したそうで、それ以来商売繁盛、心願成就がかなうとかで有名となったそうです、招き猫は500円ぐらい
から売っています。
豪徳寺境内の一角、西側に井伊家の墓所があります、江戸でなくなった6藩主とその家族、そしてその家臣のお墓
があり、安政の大獄で有名をはせた井伊直弼の墓は左の写真です。
一列に整然と並んだ墓石の中で数メートル、飛び出した墓石が2ヶ所ありますが、この墓は豪徳寺に特に貢献した
方のお墓だそうで、一つは井伊家2代当主直考で法名の「久昌院殿豪徳天英居士」の豪徳がこの寺の名前にな
っています、もう一人は直考の長女掃雲院で豪徳寺の伽藍整備や多くの寄進をした功績だとか.....
菩提寺でも貢献度によって差がつくのでは...立派なお墓のためには生前から準備が必用なのですね。
井伊直弼は病弱であった徳川家定の後継問題で、一橋家の慶喜を押す一派と対立し紀州藩主の徳川慶福を擁立し、
幕府内で対立しますが、やがて大老となり強引に事態をすすめ、天皇の勅許を得ずに日米修好条約を締結し、
さらに反対派を弾圧していき、安政5年にはじまった安政の大獄で開国反対派や一橋家を押す一派を大量に捕縛し、
捕縛者は100名を超え、処刑者は8名といわれ水戸家などの大名家も隠居や蟄居となりました、まさに大獄でしたね。
しかし、その2年後に、その恨みは頂点となり、脱藩した水戸藩士等18名により、桜田門付近で襲撃され暗殺され
てしまいましたね。
60名以上の付き人がいながら暗殺が成功したのは、当日は前夜半からの雪で供の侍は雨合羽の出で立ちで
、柄袋で刀を保護していたため即座に刀が抜けなかったためといわれています。
井伊直弼が15代当主となったのは、兄の急逝によってでしたが、それまでの間は茶人であったそうで、自ら世捨て人
のように暮らしていたそうです、地元では改革にとりくみ評判がよかったそうでした。
彼の死後発見された、著書の「茶湯一会集」で茶の心得について、序文でこう書いています。
「そもそも、茶湯の交会は、一期一会といいて、たとえば、幾度同じ主客交客するとも、今日の会にふたたび
かえらざる事を思えば、実に我一世一度の会也。去るにより、主人は万事に心を配り、いささかも粗末なきよう
深切実意を尽くし、客にも此会に又逢いがたき事を弁え、亭主の意向、何壱つもおろかならぬを感心し、
実意を以て交わるべき也。是を一期一会といふ。〜」
一期一会という言葉は堺の茶人山上宗二が最初に「山上宗二記」で記したとされていますが、じっさいにこの言葉を
広めたのは「茶湯一会集」でした。
これほどの名文を書き、卓越した見識があっても俗世にあっては弾圧者となるのでしょうか......
こちらは井伊家墓所内の物言わぬ石仏です。
豪徳寺を出ると宮の坂駅があります、この駅にならんで以前この線をはしっていた電車が展示されています。
この電車は昔、玉電と呼んだ記憶があります、懐かしい色の電車です、隣はいまの電車、すっかり流線型に変ってしまいました。
ここから1〜2キロほど先に世田谷代官屋敷跡がありますが本日は休館日とかで....
もうひとつの目的地の松陰神社へむかいますが、途中にあるのは鳥山川緑道という川を埋め立てた散歩道があります、住宅街にあって
緑があり、いい散歩道でした、きれいな花もありました。
しばらく行くと松陰神社があります。
味気ないコンクリート製の鳥居をくぐり左側の奥に吉田松陰の墓があります、本名は吉田寅二郎というそうですが、彼の名を知らぬ人は
いないぐらい有名だとおもいますが(?)学校で習った記憶があるような気もします....どうだったか?
1854年アメリカへの密航に失敗し、幕府へ自首した彼は、長州藩で獄囚となりますが、その後、生家で伯父の開いていた松下村塾を引き受け、
伊藤博文、山縣有朋、木戸孝允、高杉晋作など後の明治の牽引となる人材に孟子の学問をおしえました。
しかしながら、安政の大獄で嫌疑がかけられ再び江戸に送られ、評定所で老中の暗殺計画について語ってしまい、そのため、
安政6年1869年に死罪となりました。
屍は小塚原の回向院にありましたが、その4年後に門下生たちにより松陰神社に祀られたそうです。
井伊直弼の墓所から数キロほどしか離れていない場所に祀られているのは奇遇でしょうか。
彼が塾生に出した手紙で孟子の言葉を引用していますが有名となったのは、「 至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり。」
でしたが、誠をつくして行動すれば動かないものはないという意味でしょうが、時代はそうなったのでしょうか。
彼の辞世の一つは獄中での門下生にあてた遺書「留魂録」で「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」と残しています。
まさに時代の申し子のような気がしました。