11月23日その日は亀戸方面へ向う予定でいました。

当日の朝、インターネットをみていたら今日は樋口一葉の命日という事で、一葉忌のおこなわれる場所へ

行くことに変更しました。

亀戸はまた翌週以降にすることにして....湯島辺りから文京地区へと変更しました。

途中、あちこちと寄ってみることにし、幾度もいってはいるのですが、湯島天神にたちよってから...

下の写真は湯島天神の煉瓦塀と境内の獅子舞のおみくじ自動販売機(?)子供が真剣に見つめていました。

 

ちょうど菊展とかで、篤姫と家定の菊人形もありました。

 

湯島天神をあとにして麟祥院へ、ここには春日局のお墓があります。

彼女は徳川三代将軍家光の乳母として有名で、彼女の父斎藤利三は明智光秀の部下として主君とともに織田信長を本能寺で討った人物です。

女であったことから刑をまぬがれ、その後稲葉家の養女となり、稲葉正成の後妻となりました。夫の関ヶ原の戦いでの徳川家への貢献により、

徳川秀忠の子竹千代の乳母となり、夫とは離婚する事となりました。

竹千代と国松の次期将軍争いでは、家康に直訴までし、竹千代を将軍職につかせ、その後は大奥での権勢を極めた人でした。

おつぼね様のあだ名のルーツの方.....

 

麟祥院はどことなく気品のある寺院で、落ち着きがかんじられます。春日の局、彼女のお墓は変わったつくりで

中央に見通せる穴がありました、死後も天下の御政道を見守れるという意思が反映されているそうです。

 

境内にはなかなかよい表情の石仏があります。あちこちの石仏をみてきていますがそれぞれの時代を反映

しているのでしょうね...

 

この寺は、本堂といい、境内といい、中庭も情緒があり、心が安らぐ場所でした。

塀にあるデザインは彼女の主人であった稲葉家の家紋「角折敷に三文字」です、家、夫を誇りの思っていたことでしょうね。

彼女の辞世の句は「西にいる 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」だそうです。

生涯にわたって火宅の人をとおしたのでしょうね.....

  

そこを離れて、やっと一葉忌のおこなわれいる法真寺へとたどりつきました。

場所はちょうど東大赤門前の向いの露地をはいったところにあります。

 

彼女は、幼少期10歳までの5年間この寺の東隣に住み、作品「ゆく雲」の中で「上杉の隣家は何宗かの御梵刹さま

にて、寺内広々と桃桜いろいろ植わたしたれば、此方の二階より見おろすに、雲は棚曳く天上界に似て、

腰ごろもの観音様、濡れ仏にておわします。御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて.....」

と書いています。

腰衣の観音様は上の写真の観音様だそうで、晩年彼女はこの寺を「桜木の宿」とよんで懐かしんでいました。

ここにすんでいた当時は樋口家でもっとも生活に安定していた時期とのことでひとしお懐かしいものがあったことと思います。

一葉忌のほうは寄り道がおおかったせいか終ってしまいました、残念!

    

ついでにと思い一葉の通った伊勢屋質屋にたちよると、年一回の公開日で、中をのぞくことができました。

外観からも由緒のある建物であることが、かんじとられます。

  

当時の暖簾が時代を感じさせます、電球のカバーもどこかなつかさがありました。

伊勢屋質店の裏通りはまだ当時の面影がのこっています、この付近菊坂上通り、下通りは一葉の旧居といい、

宮沢賢治旧居跡などもあり、散策にはとても心がなぐむ場所です。

   

右の写真は、菊坂から本郷通りへ行く途中にあった明治の文豪徳田秋声の旧宅、旧宅跡地の看板

だけがのこっているところが多いなか、珍しい限りでした。

ここでの彼の生活が実体となって感じる事ができました、庭の孟宗竹は、彼の好みなのでしょうか....

今日もまた、ゆったりとした時間をすごせました。

<戻る>