今回は特に下町というわけではないのですが、信濃町から歩いてみました。
信濃町は国立競技場、神宮球場、東京体育館など多くのスポーツ関係の施設が集まっていて有名ですが、
一番は、銀杏並木でしょうか、秋にはすばらしい黄葉でしょうが晩秋には訪れた事がありません。
外苑総合グラウンドから約300メートル、146本の銀杏は植栽されてから86年たつそうですが、いい散歩道です。
突き当り、青山通りを右に曲がり、赤坂消防署方向へ左に曲がると青山霊園があります。
霊園内は、整備中とかで工事がおおいのですが、入り口の管理事務所で案内図をもらいました。
青山霊園は面積79000坪あまりで、14000のお墓に12万人の方がねむっているそうです。
このお墓は乃木希典と静子夫人のお墓。
乃木希典はここで改めて言うまでもありませんが、明治天皇に殉死した人物です,
大正元年(1912年)9月13日大喪の儀の最中に、妻、静子とともに短刀で自殺しました。
殉死の理由は残された遺書によれば、明治10年の西南戦争のおり、軍旗を薩摩軍に奪われ
天皇に対する責任を果たす事と書き残しています。
司馬遼太郎は彼の作品「坂の上の雲」で乃木を無能な将軍として書いていますがどうだったのでしょう。
「坂の上の雲」はNHKが3年をかけ撮影し、放送も3年にわたる、大河ドラマを今秋から放映される
そうですがどのように表現されるのでしょうか...
このお墓は尾崎紅葉です。
尾崎紅葉で記憶しているのは「金色夜叉」ですね。
あの本の文体は読めないのですが「熱海の海岸散歩する
貫一お宮の二人連れ〜」
この歌のメロデイーがついでてきます。
未完の小説だそうですが、紅葉はどんな結末を考えて
いたのでしょうか。
この墓は井上準之助。
昭和初期、大蔵大臣として金解禁を実施した人
でした。
昭和7年、選挙の応援演説に行く途中、血盟団
によって射殺された人でした。
その1ヶ月後に同じ血盟団により、団琢磨も暗殺され
その年は5.15事件もおき、4年後には
2.26事件とつながり世情は混乱していました。
昭和維新の思想と行動は破壊だけが残ったのですね。
もうすぐ大戦の足音がせまってきた時期でした。
斎藤茂吉のお墓です。
昭和初期のアララギ派の中心人物だったそうですが、
彼は北杜生の父でしたね。
青山霊園で一番(?)大きかったのは大久保利通のお墓でした。
亀趺墓は儒式のお墓ですが大名や高家の方に使われますが、
さすがに日本を近代国家へと導いた人物だからなのでしょうか。
官僚政治の礎を築き、いまなお官僚主導の国となっていますが、
当時としては最高の政治形態だったのでしょう。
当時、内務卿であった大久保卿は明治11年5月に霞ヶ関の自宅を
出て赤坂紀尾井町の清水坂にさしかかったとき、西郷隆盛を信奉
する6名の暗殺者により、斬殺されました。
西郷と大久保は同じ薩摩藩での盟友でしたが、西郷の征韓論に反対し、
袂を分かつこととなり、やがて西郷は西南の役で戦死しました。
大久保卿の遺骸の懐には西郷からの手紙があったそうです。
余談ですが、暗殺の数日前、前島密が訪れた際、夢の話をし「西郷と格闘して崖下に落ち、頭蓋骨が割れ、
脳髄が動いている夢を見た」と語ったそうです。
これは、森有礼のお墓です。
彼も暗殺されています。
明治22年帝国憲法発布の当日、初代文部大臣であった森は、出庁前
自宅を訪れた狂信者に襲われ43歳でなくなりました。
時代が大きく変ろうとするきにはこのような犠牲が必要なのでしょうか...
下は後藤新平のお墓と副島種臣のお墓です、共に明治を生きた政治家です。
後藤新平は晩年、初代ボーイスカウトの総裁となった人で、最後の言葉は「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。
仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」だそうです。
北里柴三郎のお墓です。
小学校か中学校で習いましたね、野口英世とならんで日本の医学に貢献した人でしたね。
政治家の墓が多かった青山墓地でしたが、最後は医者の墓で見学終了です。
とりあえず、本日は青山墓地だけということで、この続編は来週にでも.....