月桂寺を出て左折すると、ほどなく、外苑東通へでて、そこを右折すると、防衛省市ヶ谷駐屯地
があります、1970年、作家三島由紀夫が立てこもり切腹したところですね。
彼は自殺の4年前のインタビューで自分の死に方について、たしかこんなことを言っていました。
「人は自分のためにだけ生き、そして自分のために死ぬという生き方ができるほど人間は強くはない、
そのため何かのために死にたいと願うものだが、今の世は大義のために死ぬような時代ではなくなっている、
結局自分は畳の上で死ぬことになるだろう...」
自分の死に方についてこう語っていましたが、彼は彼なりの大義があってそれを実行したといえるのかもしれません。
この写真は、防衛省の石垣、江戸時代は尾張徳川家の上屋敷があったそうですが、石垣
は名残りなのでしょうか。
防衛省沿いに歩くともう市ヶ谷駅です、駅前の急な坂をのぼれば市谷亀岡八幡宮があります、
1479年、太田道灌が創始したそうですが、急な階段です、途中で失神したらと思うと....
しっかり手すりを握りながら登りました。
この鳥居は銅製で、1804年に建てられ442人の寄進者の名前がほってあります。
駅前の通りを飯田橋方面へ少し歩くと浄瑠璃坂があります。
まあ普通の坂ですが、浄瑠璃坂の仇討といわれる江戸の三大仇討で有名な坂だそうです。
この仇討と、荒木又衛門の鍵谷の辻の決闘、それと忠臣蔵が三大仇討といわれているようです。
浄瑠璃坂の仇討は1668年(寛文8年)宇都宮藩の藩主奥平忠昌が亡くなり、その法要の場で、従兄同士
であるが、普段より仲が悪い家老の奥平隼人と同じく家老の奥平内蔵允の間で法要に遅れた内蔵允を
隼人が怠慢だとののしり、それをきっかけに内蔵允が脇差をぬいて切りつけたそうです、しかし逆に隼人の弟
の加勢もあり、内蔵允は深手をおってしまい、その場で更なる恥辱をうけてしまいました。
その後、二人は親戚預かりとなり、屈辱にまみれた内蔵允は切腹して果ててしまいました。
半年後、幕府の裁定により、隼人は改易のみの処分となりましたが、内蔵允の12歳の嫡子源八、
従兄の伝蔵正長はお家追放の一方的な処分が下されてしまいます。
源八等は父の仇を討つ機会を狙っていたが、警戒していた隼人にちかずけず、その翌年隼人の弟主馬に決闘を
挑み、無事討ち取り、主馬の首を決闘状につけて潜伏先の旗本屋敷に投げ込んだといいます。
隼人は争いから逃げ、市ヶ谷浄瑠璃坂の鷹匠頭戸田七之助の役宅へ逃げ込みましたが、1672年、
源八と一党の42名が討ち入りました、しかし隼人はその時不在で、隼人の父など一族9名を殺害して引き揚げました。
翌朝帰宅した隼人はそのことを知り、手勢をひきつれあとを追い、合戦となりましたが、ようやく隼人は討ち果た
され4年かかった仇討が果たされました。
その後、源八等一党は幕府に自首し、遠島となりますが6年後に千姫の13回忌の大赦で赦免され彦根藩に召し抱えられた
といいます。
忠臣蔵にも似たような討ち入りですが、忠臣蔵の討ち入りは1703年、その差わずか31年ですが、
かたほうは全員切腹、この差はなんなのでしょうか.....
そんな、思いはそれとして、浄瑠璃坂を上り、大久保通りを右折すると神楽坂です。
大正時代から、花街があったといいますが、表通りの坂は夜のほうが飲食店など立ち並び人通りもにぎわいを見せています。
子ども向けの懐かしい雑貨をあつかっている店もありました。
裏とおりに一歩はいれば粋なお店も多く、雑踏から離れた静けさをたのしめます、当日は若宮神社の祭礼もあり下町の雰囲気
を味わうことができました。
今日は焼き鳥とビールで神楽坂の夜を過ごしました。